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夏合宿は裏磐梯。一年部員全員集合! |
昭和44年(1969年)に入学した我々は、池袋のヤミ市マーケットの面影を知らぬ世代。世情は、海外にはベトナム戦争が、国内には日米安保条約改定、成田空港開港といった諸問題があって、多くの学生が大学生活のなかで、学生運動と直接、あるいは間接に関わった時代でもありました。
サパンヌの脱退後に六美(六大学美術連盟)が解体したのもこの頃のこと。学生運動が次第にセクトに分裂してゆくなか、サパンヌは部員の思想、信教の自由を最後まで認めた希有な文科系クラブでした。
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合宿のスタートは神妙なミーティングから |
今思えば、そのような環境は、社会の一面にすぎなかったというべきで、あの時代、本当に大きな意味を持っていたのは、我々が非常に大きなエネルギーに満ちた時代を生きていたということではなかったのか、という気がするのです。上2枚の写真は、1年の時の裏磐梯の夏合宿のものですが、コットンパンツが、市民権を得始めたジーンズへ取って代わるファッションの過程をとらえた1枚と言えそうです。
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1年春・伊東スケッチ旅行 |
春の学内では新入生歓迎展、春季展、夏合宿、秋は同志社大学クラマ画会との同立展、立教祭サパンヌ展、秋季展、春合宿、という年間の流れに沿って、ダイナミックな創作が展開され、OBの斎藤正夫先生、顧問の川口正秋先生の熱心な指導のお世話になりました。
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1年春の伊東スケッチ旅行2 |
当時のサパンヌ展は5号館のコモンルームを全面使用し、地下倉庫から運び出した展示パネルに、50〜100号の絵が並べられていました。それ以外にも、立体、環境アート、パフォーマンスなどの現代アートが、階段や、屋外を使って展示されたものでした。
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立教祭がテレビや週刊誌で報道された。 |
71年と72年の立教祭には、5号館前に、ベニヤ40枚を使った日本一大きな『タテカンアート』をサパンヌが掲げ、現デザイナーの茂木二三夫さんが下絵を描いた『セントポール歌麿』が、猥褻図画公然陳列の嫌疑?を呼ぶ程の評判となって、『平凡パンチ』のカラーグラビアを飾りました。 翌年は、現イラストレーターの小山混君の下絵による、『ハリウッドの黄金時代』が時代のエネルギーの発進基地となりました。
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1971年の大学祭を飾ったモンローとハリウッド。 |
大先輩を含む諸先輩との交流の場となった「あさ」「秋田屋」「餃子楼」を主たる舞台に展開された酒とバラの日々は、当時の山小屋の部屋にまで及び、とり鍋を肴に飲み干された「サッポロ・ジャイアンツ」の空き瓶が、そこら辺にゴロゴロしていたのも、此のころの事です。
あの頃の、わき立つような活力をいつまでも保ち続けたい、そんな気のする今日この頃です。
(昭和48年/法学部卒 小林 深緑郎 /ラグビー解説者 2002年記)
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