われらが時代/1957(昭和32)年

芸術研究会の時代/永野 和道


 私は、昭和28年(1953年)入学、昭和32年(1957年)の4年間の大学生活で思いつくままにその時代のことを書きとめてみます。  まだ、戦後の混乱がありましたが、やっと第二次世界大戦が終わり、焼け跡があっても平和になったことで日本人の心持ちも明るい気分が持ちあがって来ました。昭和25年の朝鮮戦争の余波もあって、前向きな時代になり皆んな一生懸命に働いていこうという気分がみなぎっている時代でした。  わが校の象徴である時計塔の本館、第一学食、チャペル、入学時と雰囲気は現在でも70年たってもちっとも変わっていません。

芸研メンバー全員集合

1)昭和31年頃の芸術研究会美術部と音楽鑑賞部合計34人位で、4年生の卒業を送る会の集合写真だったと思われる。



①美術部の活動としては、当時六大学美術展が朝日新聞社の後援で確か日本橋三越、高島屋、渋谷東横百貨店の本店で毎年開催されていたと思います。

②また、同志社クラマ画会との一年おきの交互の東京、京都での合同展覧会があり、京都の岡崎美術館でやったこと、同志社の友人自宅に泊めてもらい、また東京では自分の家にきて一泊してもらったことが心に残っています。

③小展覧会を銀座通りの松坂屋(現在のGINZA SIX)のそばの東京ガスホールの2Fでその展覧会をやっています。当時は学生に対して一目置いて温かく接してくれ会場も少しの賃借料で貸してくれ応援を受けたように感じます。

④また、昭和30年芸術研究会経費の上足を補うためクラシック音楽愛好者の部員の考えで、日比谷公会堂でそのころ著吊なピアノ奏者安川加寿子さん、園田高宏さん、バイオリン奏者巌本演理さんの音楽会を開催できたのが思い出されます。今では考えられない音楽会が学生の手で開催できたのに驚きを禁じえません。

⑤秋の文化祭では校内での展覧会を行いました。また、憲法学者の中村哲先生の紹介で独立美術協会の大御所・吉岡憲先生、山本正先生などに来ていただいて絵の勉強会を開いたこともあります。


当時の部室

2)昭和30〜31年頃の部室=山小屋での作品発表会。くじ引きで、作品の交換をしたと思う。右端の工場のような絵は、平賀 敬 画伯(昭和34年卒、右から3人目)の作品で、当時から今日の個性ある作品を生み出す兆しが感じられた。前列左から3人目の眼鏡の方は、川口 潔 画伯(昭和35年卒)

ピアノ

3)昭和30年〜31年頃日比谷公会堂での音楽会。巌本演理さん(バイオリン)、園田高宏さん(ピアノ)、安川加寿子さん(ピアノ)3人の当時の一級の音楽家による音楽会。芸術研究会の主催で部費を補うため開催。美術部員も神田の楽器店から足りない楽器を借りて運搬協力した思い出があります。

学内の美術

4)昭和30〜31年頃銀座7丁目松坂屋近くの「東京ガスホール《2Fでの芸研美術部の小品展でのスナップ。当時は、学生に対して社会が一目置いて暖かく接してくれ会場も少しの賃貸料で貸してくれ応援を受けたように思う。

学内の美術展

5)昭和30年8月の6日間同志社大美術部と芸研との合同合宿を山梨県八ヶ岳山麓清里中学校体育館でまた、同志社大学美術部とは東京・京都を隔年で交互に合同展を催した。


学内の美術展

6)現在も同志社大学クラマ画会との関係が深いようですが、1992年5月(平成4年)にクラマ画会の誘いを受けて、三条大橋の画廊の展覧会に参加しました。





1957芸術研究会の時代/永野和道 永野和道さん/1992年撮影


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