われらが時代/1975(昭和50)年卒




妖怪を持ち歩く――品川ドリーム――美濃 瓢吾


 舞台は「品川」、画家・平賀敬(敬さん)の没後二十年を振り返った。

 長いパリ生活から戻った平賀敬に、『大磯八景』と題したシリーズがある。その一景一景は、古典落語に題材を取ったり、花見、ビーチ、心中物が連なる中期の作品群だ。このシリーズの場景を再現するなら、ここ「品川」しかない。当初は、ペリーの三度目の来航、映画『幕末太陽傳』(川島雄三監督)などを下地に、平賀敬の「マイ・フェイバリット・シングズ」を思い出すままに描こうと考えていた。


品川ドリーム
品川ドリーム(2022年 126×56cm)
 ところが制作年でも分かるように、ダイヤモンド・プリンセス号に始まるコロナの来襲、その最中の東京五輪と、社会状況は一変し、東京アラートなる断片も画面に入れている。「大波」から飛び出す、この豪華客船の船首には「アマビエ(三頭)」が姿を見せている。画面左上の「大首」がぶら下がる、赤色にライトアップされたレインボー・ブリッジ、群がる「鳴屋小僧」たちには金槌を持たせ、ブリッジを半鐘代わりに叩かせてみた。コロナだけではない。気候変動を始めとする、天災、人災、人類への警鐘だ。  以前、横浜市の神奈川県立歴史博物館を訪れたときに入手した、安政年間に描かれた一枚の絵ハガキがある。タイトルには『北亜墨利加合衆国水師提督ペルリ之肖像(守弘?)』。当時は、様々な絵師が珍奇な異国人ペリーを想像しながら描いただろう。この肖像画は印象が強く、首のみを描き入れた。右上の瓢箪シンキロー、黒船はクルー・ドラゴンを連れた空母へと変わり、果たして新造船の空母に命名されるかどうか分からないが、前大統領のドナルド・トランプ、虹を吐き出すジュディ・ガーランドらしき人物も乗船している。来航目的は、もちろん「和平」。


赤舌(2015年)
赤舌(2015年)

 しかし、このパートで強調したかったのは、黒船が乗り移った「白い」生き物だ。コロナ禍で読んだ本の中に、メルヴィルの『白鯨』(千石英世訳、講談社文芸文庫)がある。文学上の解釈は十人十色だろうが、私はこの長篇を時間をかけてゆっくりと読んでいたせいか、コロナ禍という長い航海のごとき年月と合致したような気がしてならない。帯にある、柴田元幸氏が言うところの「しなやかな訳しぶり」を肌で感じた。さらに、翻訳者自身による解説文にも、読後の感慨からだろうか、尾を引くような私なりの語感が残像としてあった。つまり、『暗示でしか語ることのできぬもの』という題目の中の、この「暗示」だ。作画上、「空中楼閣(シンキロー)」と「暗示」は、 私の中では同根を意味する。  本の話でもう一つ、画面では分かりにくいかもしれないが、本人の描いた妖怪たちとともに芥川(龍之介)の顔が見える。そもそも私が妖怪画を描こうと思い始めた頃、真っ先に頭に浮かんだのが『河童』で、この小説の導入部、出だしが何とも居心地のいい、先の言葉を拝借すれば「しなやか」なのだ。上高地の温泉宿から穂高山へ登る途中の、梓川の谷と霧の中、「河童」との遭遇は何度読み返してもいい。芥川と妖怪との相性は悪くない。本頁中央のモノクロ画は、安田講堂の前を歩く芥川、「東大闘争」の頃という設定だ。


新富座妖怪引き幕
新富座妖怪引き幕(1880年・河鍋暁斎)

 何故、反りが合うのか。その風貌と言い、私が眺める芥川は古今東西の作品に精通しているにせよ、『今昔物語』にめんていどっぷり浸りきっている、芥川の「面体」にしかならないからだ。一読者としては、あの『羅生門』、まるばしら大きな円 柱にとまる蟋 蟀までがきりぎりす「変身」した芥川自身の覗き見ではないかと。この画ではコロナ禍もあり、芥川が長崎旅行から持ち帰ったマリア像の下での「河童」の出産シーンとした。ーーけれどもお産をするとなると、父親は電話でもかけるように母親の生殖器に口をつけ、「お前はこの世界へ生まれて来るかどうか、よく考えた上で返事しろ」と大きな声で尋ねるのですーー。すると、腹の中の子が、「僕は生まれたくありません。……」と小声に返事をする。これこそも『今昔物語』のようなもの、人間界やその周辺にある話は、押し並べて「笑い」が尽きない。芥川の言う「生なましさ」か、私は「コンジャク」なる新しいカタカナ妖怪(ヨーカイ)まで想像してしまった。  画に「空中楼閣」を持ち出せば、どうしても「境界」を意識することになる。ジェームス・キャメロン監督の『アバター』(2009年)というSF映画がある。舞台設定が好奇な趣向となり、人間を一つの装置から別の場所へと移送するシーンが何度も出てくる。宇宙航行法(ワープ)の一例なのだろう。この映画の娯楽性は、映像という平面連写の中にあらゆる次元の世界を同時に見せてくれる。だからだろうか、絵画(二次元)の中に他空間や時間の概念まで入り込む、多次元世界を想定するならば、私には「持ち歩く(同居する)」べき妖怪世界という、好適の題材が不可欠となる。ことに「境界」では、妖怪たちが群がる。


北野天神縁起絵巻 雷神
北野天神縁起絵巻 雷神

 これは私の好みの世界なのだが、類例をあげると、河鍋暁斎が仮名垣魯文の委託を受けて一気に描いた、『新富座妖怪引幕』(早稲田大学坪内博士記念演劇博物館蔵)が、これに符号するだろうか。観客と舞台との「境界」に、妖怪に化けた役者たちを配置させることで、立体化した芝居小屋が新奇な異次元空間を幾重にも孕(はら)むことになる。けっして複雑な策を弄しているわけではない。  当然のことながら、暁斎の画力が物を言う。この人の晩年の写真を見ていると、眼力と言い、「全身絵筆」のような怪人だなと。鬼才と画力のある絵師の本筋からすれば、暁斎と妖怪たちとの距離はない。それは、この場面に行き合った暁斎の至福でもある。しかし、よくよく考えると、一方には能舞台のような幕を省く世界もある。そこには、囃子(はやし)方による「境界」としての「管弦」が響く。とすれば、人間の想像世界の一つは、「場面転換」の妙技に磨きをかけることだと言える。妖怪画の「通過儀礼」となる世界も、このへんにあるのだろう。


ゲルニカ/パブロ・ピカソ
ゲルニカ/パブロ・ピカソ(1937年)

  妖怪を描き始めた頃、『河童』も然(さ)る事ながら、頭の片隅に置いていたのが、ピカソの『ゲルニカ』だ。ピカソがどうのこうのと言うのではなく、『ゲルニカ』そのものの存在だ。「私の美術史」は、単純に「『ゲルニカ』以前、以後」ということにしている。はっきり言って、「以前、以後」と美術史とは別問題で、「目安」としての『ゲルニカ』が必要だっただけのことだ。  ナチスの無差別爆撃に対する抗議として誕生した『ゲルニカ』、けっして画面上は妖怪画ではない。その惨劇をこうした画面に仕上げた、ピカソの技量と品格を感じる。しかし、誕生から一世紀近くが経過した『ゲルニカ』を一個の造形物の本領=カリスマと見なせば、唯一無二の「怪物」となる。そして、この「怪物」は多方面に影響力を発揮するようになり、救われる人たちは多い。少なくとも、人類はそのことに気付き始めているはずだ。『ゲルニカ』が一個の「怪物」として、どの時代(以前、以後)へも飛来し始めたのだ。そこが妖怪とも相通ずるところで、とうとう私は頭の中にインプットしてしまった。もう、どうしようもない。  例えば、こうだ。国芳が『ゲルニカ』を眺めたら、どう想うだろうかとなる。国芳には、例の『荷宝蔵壁のむだ書 さけがのみてへう役者の似顔絵があるからだ。もっと大袈裟なことを言えば、『宮蔵の鯨退治』を色彩抜きの落書き式に描いたらどうなのだろうがと、妄想に耽るわけだ。もう一例をあげると、国芳よりずっと以前、鎌倉時代の『北野天神縁起絵巻(承久本)』に登場する「雷神」だろうか。「ゲルニカ』やってるな」と言い放つのがお似合いかもしれない。「怒り」というものが直截的に出た画面、日本式『ゲルニカ』の草分けだ。『ゲルニカ』の出現は、あらゆる時代の可能性を練り直す美術の有るべき姿を、無言のうちに我々に投げかけてくる。『ゲルニカ』が発信する普遍性は、すでに「コスモス(宇宙)」の領域に近い。とにかく私は、「これは『ゲルニカ』だ」、「あっ、これも『ゲルニカ』だ」と独り言を洩らしながら妖怪画を描いている。敢えて言うなら、『ゲルニカ』は私自身が持ち続ける、身体の中に現前する「空中楼閣」のようなものだろうと。「目安」にする理由もそこにある。


   構図上、「御殿山(桜)」、「広重『月の岬』」、「東京湾」……にしても、「空中楼閣」をラインで処理している。その主たる「遊郭」は、映画の中の「相模屋」では物足りないので、「ヨーカイサロン ゴー・ツー・ドリーム楼」とした。私の「空中楼閣」が、気象学上の蜃気楼ではないことは、以前にも述べた通りだ(「テクネ」No.38参照)。ただ、「空中楼閣」を垂直方向への移行のみで捉える必要はない。「場面転換」からすれば、「全方位へ」となる。  少し視点を変えると、平安時代の「寝殿造り」は、「遊郭」の構造と類似する。第一、『源氏物語絵巻』という屋根や天井を取っ払った、刮目すべき画面が十二世紀にはすでに存在していた。応挙以来の写実(理性)という、これまた途轍もない世界が一方にある以上、この日本人の「中が見えてもいい(覗き、透かし)」とする感性は、一体、何なのだろうか。西洋美術史には、じつに重宝な言葉がある??「シュールレアリスム」。実際のところ、先のピカソではないが、西洋画の変革を告げたとする二十世紀初頭の『アヴイニョンの娘たち』の平面性は、十九世紀後半のヨーロッパを駆け巡ったジャポニスムとは無関係なのだろうか。何故、こんな疑問を抱くかと言うと、「キュービスム」という様「式が、妖怪画の描法として私には相性がいいという、「実感」があるからだ。  話を『品川ドリーム』に戻す。パリ時代の平賀敬は、「フィギラシオン・ナラティヴ(物語性具象)」展に参加していた。その骨法が平賀敬の中にある。私は生きている間は、「平賀派」を標榜しようと思っている。没後二十年を振り返ると言ったが、偲ぶとか追悼するという心情はない。あくまでも、敬さんとの「交信」としての記録画だ。


   「本画取り」(「テクネ」No.41参照)した三景のうち、中央上にある『三枚のハートのカード』(高松市美術館蔵)の部屋では、居残った敬さんが志ん生と盃を重ねている。何としでも描きたかった場面だ。言うまでもなく、敬さんの作品は『三枚起請』に因る筋立てとなる。小林旭は映画にも長州藩士として出演、コロナ禍、八十歳を過ぎても現役でアキラ節を聴かせている。すごいの一語だ。  敬さんと交友のあった、秋山(祐?太子)、種村(季弘)さんも再登場。以前、種村さんは愛宕山下に住んでいたそうで、広重『芝愛宕山』の毘沙門の使いに扮してもらった。一説には、この使いが広重自身だとか。しかし、どちらにせよ、変装を嫌がる種村さんではない。楼のお風呂は、晩年に平賀敬が居住した箱根湯本の浴場(温泉)を持ってきた。作句をやり、酒と豆腐と葱(深谷)を好物とした、その敬さんの一句、《花火三千行燈海月溺れけり》。「経凜々」という妖怪に描き込む。この句が、富澤赤黄男の《蝶墜ちて大音響の結氷期》をヒントに詠んだことは、敬さん本人の口から何度も聞かされている。  何はともあれ、すべては、「記憶」を辿る『品川ドリーム』。映画には、フランキー(堺)が、お呼びがかかる度に羽織を宙に投げ上げ、腕を袖に通す所作が出てくる。たとえ即席であろうとも、この「身のこなし」もまた、??「空中楼閣」だろうと。




 追記/この草稿は、2022年4月頃に書き始めている。「人災」の最たるものは戦争だ。ウクライナの悲劇は、ロシアの悲劇。やがて、世界の悲劇へと連鎖して行く。改めて、人類は『ゲルニカ』を、確(しか)と心中に刻み込むべきだ。私は、文中で『ゲルニカ』を、かなり連呼した。否、したくなったからだ。



 (昭和50年卒 美濃瓢吾)

美濃瓢吾








All Those Years Ago


種村季弘、平賀敬さんと著者
種村季弘さん宅で平賀敬さんと
鉄輪温泉にて
別府鉄輪温泉のみゆき旅館にて

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