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立大サパンヌ美術クラブの歴史
<大正〜昭和〜平成〜令和編>


 サパンヌ美術クラブは2020(令和3)年にクラブ創立100年を迎えました。記念すべき年に計画された展覧会は、人類を脅かしたコロナウイルスの世界的大流行で一年延期。翌2021年の12月、コロナ禍が一時鎮静化した折、満を持して、現役学生とコラボしたOBOG会主催の「サパンヌ美術クラブ創部100年記念展」を池袋の東京芸術劇場で開催することができました。

 会場にはこの日のために健筆をふるった多くの作品が展示され、かつてないたくさんの皆さんのご高覧をいただきました。この機会に遠方より上京された先輩方と美術を通じて交友を育んできた美術部ならではの会話で盛り上がり、ご自身が輝いていた現役時代の思い出話に花が咲きました。
 さらに100年展ではクラブの歴史を彩るプロの画家やアーティストの活躍を記すパネルや貴重な写真が展示されると同時にクラブの歴史を記録したビデオ上映も行われました。

 さて、一口に100年と言っても、その歴史は大正時代に遡り、また長く64年間と続いた昭和時代は第二次世界大戦の戦前と戦後の日本の大躍進の時代があり、平成の31年間、そして今日の令和5年を迎えています。

大正時代末期

 サパンヌ美術クラブは、洋画クラブ、セントポール美術倶楽部、芸研美術部と流れ行く時代の中でその名前が変わりました。創部は1920(大正10)年とあります。誕生したころのサークル名は「洋画クラブ」で、それがいつセントポール美術クラブになったかは不明です。
 間もなく大正12年の関東大震災で立教大学も本館の塔が崩落、隣接の立教中学は全焼するなど甚大な被害を受けました。学生はボランティア活動に奔走しましたが、こんな時代でも絵が好きな学生は絵筆を握っていたと伝承されています。そして昭和時代を迎えます。

戦前・戦中の時代

   1931(昭和6)年頃、池袋周辺に絵画を愛好する仲間が集まり、やがてモンパルナスのアトリエ村が作られ、立大生の溜まり場になっていたとの記述があります。
   1941昭和16)年は自由とモダンの時代。母校出身の映画俳優やジャズ歌手が時代のシンボルとなっていた時代。戦前の立教は予科・学部各3年の6年制でしたが、鈴懸けの小径を歩き校門を出入りする中に女子はおらず、黒い学生服姿だけのユニバーシティでした。
 しかしこの年の真珠湾攻撃により太平洋戦争に突入、間もなく大学は機能不能におち入り、講義は軍事訓練や勤労動員に変わった。
 このような時代でも「セントポール美術クラブ」の面々は画筆を放さず、絵を描いては学食に絵を飾る校内展を実施し、銀座の紀伊国屋書店2階の画廊では毎年秋期展を開催した。OBの若き画家・斎藤正夫氏(1912明治45年〜2000/1/2 享年87)が機会あるごとに母校を訪れ、美術への情熱と愛校心をもって美術クラブの後輩にご指導をいただいた。大学は文化団体として認知し小額ながら毎年予算を計上してくれ、画廊代を補助してくれました。

戦後復興の時代1

   戦後、1949(昭和24)年はヤミ市を通っての通学の日々で、まだ立教に女子大生がたったの1名の頃。同年、東口に西武百貨店が開業(昭和37年に東横百貨店のちに東武)、街の風景・雰囲気がだんだんと変わっていきました。
 このころの「芸術研究会」通称「芸研」は美術とクラシック音楽の両輪で走るクラブで、「芸術とはなんぞや」を論ずる『美学』の集団でした。
「芸研・音楽部」は辻 荘一教授のご指導のもと日比谷でコンサートするなど、立教オーケストラとして活動、また「芸研・美術部」は画家の斉藤正夫さんや杉三郎さんからご指導いただき、学内では本館の2階の広い教室で「芸研美術展」を開催。展覧会が終わると絵の合評会があり、皆カンカンガクガクの芸術論を戦わせたものでした。

戦後復興の時代2

   1953(昭和28)年〜32年の頃は、戦後の焼け跡は残るが平和になったことで日本に明るい気分が持ちあがって来た。昭和25年の朝鮮戦争の余波もあり、皆んなで一生懸命に働いていこうという前向きな時代になった。
 昭和31年頃の芸術研究会美術部34名と音楽鑑賞部は合計60人で、うち女子学生が20名以上在籍していた。
 美術部は朝日新聞社の後援で六大学美術展を日本橋三越や渋谷東急で、また小展覧会を銀座通りの東京ガスホールで開催していた。
 秋の文化祭では校内での展覧会を行い、独立美術協会の重鎮・吉岡 憲氏、山本 正氏などによる絵の勉強会が開催されました。  また、同志社大学クラマ画会との一年おきの交互の東京、京都での合同展覧会があり、期間中は各部員の家に泊まりあい友情を交歓しました。



芸術研究会の美術部と音楽鑑賞部合計34名/1956(昭和31)年ころ


新生・サパンヌ美術クラブの誕生

  「芸術研究会」は創部以来、長きに渡り美術と音楽が一体となって活動してきましたが、この頃、絵を描く人が増え、1959(昭和34)年11月に懸案の芸研の分割が決まり、美術系は『サパンヌ美術クラブ』となりそれぞれの道を歩きはじめ、今日に至ります。

大学封鎖!サパンヌ激動の70年代

 1969(昭和44)年に入学した学生は、池袋のヤミ市マーケットを知らず、戦争を知らない世代。世界ではベトナム戦争、国内では日米安保条約改定、成田空港開港といった問題で、多くの学生が大学生活のなかで、学生運動と直接、あるいは間接に関わった時代でもありました。
 春の学内では新入生歓迎展、春季展、夏合宿、秋は同志社大学クラマ画会との同立展、立教祭サパンヌ展、秋季展、春合宿、という年間の流れに沿って、ダイナミックな創作が展開され、OBの斎藤正夫先生の熱心な指導のお世話になりました。
 当時の立教祭サパンヌ展は5号館のコモンルームを全面使用し、50〜100号の大作がずらりと並べられかつてない壮観な展示を実現させました。
 1971年と72年の立教祭には、サパンヌが5号館前面に、ベニヤ40枚を使った日本一大きな『タテカンアート』を掲げ「平凡パンチ」や「週刊文春」などのカラーグラビアを賑わせ、蛍雪時代の表紙を飾りました。
 それにも増して、大先輩を含む諸先輩との交流の場となった「あさ」「秋田屋」「餃子楼」を主たる舞台に展開された酒とバラの日々はこのころの忘れられない想い出です。

 サパンヌ美術クラブOBOG会は現役学生たちとコラボしつつ、個人それぞれが生み出すエナジーが集まって大河となすような活動を、これからも続けていきたいと思います。

(1973(昭和48)年卒・小山一茂(小山 混) /2023/3/24 記)

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ただ今編集中です。






2022年12月に池袋芸術劇場で行われた「サパンヌ100年展」の様子
西原総長とサパンヌOB会幹事
OBの集合写真 2022年12月に池袋芸術劇場で行われた「サパンヌ100年展」の様子。 ? @西原総長とサパンヌOB会幹事 ? AOBの集合写真

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